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日経NEXTの取材を終えて

執筆者の写真: 仁志 花上
仁志 花上
9月17日
読了時間: 7分

先週の金曜日、日経NEXTの取材を受けました。

インタビューでは、この地域の織物産業の歴史、三和織物から現在のGENETEX JAPANに至る会社の歩み、そして現在の仕事について、長い時間を振り返る機会となりました。


その内容については、今後の記事の中で紹介していただけると思いますので、ここで改めて会社の歴史を詳しく書くつもりはありません。


取材を終えた後、自分の中に強く残ったのは、むしろ別のことでした。


これまで会社が取り組んできたさまざまな事業を振り返ると、その背景にはいつも「人がいなくなる」という問題があったことに気づきます。

ただし、これは単純な採用難という話ではありません。


この地域そのものが、長い年月をかけて織物産地ではなくなっていった。その変化の影響が、会社の経営や技術のあり方にまで及んでいたのだと、今回改めて感じました。


かつてこの地域には、織る人がいて、糸を扱う人がいて、機械を直す人がいました。それぞれの工程を支える会社や職人も周囲に存在し、一つの工場だけですべてを抱える必要はありませんでした。

産地全体が一つの大きな仕組みとして動いていたのだと思います。


ところが産業が縮小すると、仕事が減り、企業が減り、そこで働く人も減っていきます。やがて技術を受け継ぐ人がいなくなり、相談できる会社や修理を頼める業者まで姿を消していきました。

その段階になると、問題は「人を採用できるかどうか」ではなくなります。


教えられる人がいない。

修理できる人がいない。

困った時に相談できる相手がいない。

必要な部品さえ手に入らない。


産地がなくなるということは、工場の数が減るだけではありません。最後まで残った工場が、少しずつ周囲から切り離され、孤立していくことでもあるのだと思います。


三和織物も、そうした環境の変化に対して、その時々で方法を探してきました。

現在も受け継いでいるフレスコと呼ばれる「からみ織」は、その象徴の一つです。

本来、シャトル織機でなければ難しいとされていた織物を、約35年前からレピア織機で生産できるよう技術を改良してきました。

単に生産性を高めるためだけではありません。

職人的な経験に強く依存する難しい織物を、そのままの状態で次の世代へ渡すことが難しくなっていたからです。

以前であれば、若い人が職人の横について何年も仕事を覚えることができたのかもしれません。


しかし社会が変わり、働き方や仕事に対する価値観も変化しました。この地域にも繊維以外の仕事が増え、長い年月をかけて技術を身につける職業を選ぶ人は次第に少なくなっていきました。


それならば、昔と同じ方法を守るだけでは技術そのものが残らない。

人を仕事に合わせるのではなく、仕事の方を変えていく必要がある。

設備を改良し、作業を標準化し、できるだけ再現性のあるものにする。

現在のフレスコ織の技術も、そうした考えの積み重ねによって磨かれてきたものです。


その後も、環境の変化に対応するため、さまざまな取り組みを行いました。

外国人研修制度を導入した時期もあります。海外生産へ進出したこともあります。意匠やデザイン、営業といった機能を社内に持とうとしたこともありました。

最新設備を導入すれば生産の問題を解決できるのではないか。

国内で確保できないものを海外で補えないか。

外部に依存している機能を社内に取り込めば、もっと安定した経営ができるのではないか。


そう考えながら、その時々で可能性を探ってきました。

もちろん、すべてが思い通りになったわけではありません。

期待した成果を得られなかった事業もあれば、大きな投資が負担となったこともあります。


今になって振り返ると、一つ一つを単純に成功か失敗かで評価するよりも、縮小していく産地の中で失われた機能を、何とか別の方法で補おうとしていたのだと理解する方が、自分にはしっくりきます。


産地が健全であれば、一社ですべてを抱える必要はありません。

意匠は専門の会社に依頼できる。

機械が故障すれば修理業者に任せられる。

技術者も地域の中から探せる。

必要な知識や技術が地域の中を循環しているからです。


ところが、その土台が失われると、それまで周囲にあった機能を残った企業自身が背負わなければなりません。

この変化は、想像していた以上に大きなものでした。


特に強く実感したのは、技術者や修理業者がいなくなってからです。

以前なら、機械に問題が起これば専門の人に相談することができました。

ところが、社内の技術者が退職し、長年お願いしてきた修理業者も高齢になって廃業する。メーカーから部品が供給されなくなった機械も増えてきました。

そこで初めて、機械を所有しているだけでは生産を続けられないという当たり前の事実に気づかされました。


一台の織機の裏には、使い方を知る人がいて、調整する人がいて、故障を直す人がいる。そして必要な部品を供給する会社もある。

そうしたものすべてを含めて「産業」だったのだと思います。


父が亡くなったことも、自分にとって大きな転機でした。

私は長い間、企画や営業、管理を中心に仕事をしてきました。そのため現在は、改めて機械のマニュアルを読み直し、昔、父や技術者がどのように作業していたのかを思い出しながら、修理やメンテナンスに向き合っています。

もっと早い時期に技術を学んでおけばよかったと思うことは、今でも少なくありません。


それでも不思議なことに、現在の方が以前よりモノづくりを面白いと感じています。

機械に問題が起きれば原因を考える。

自分で直す。

条件を調整する。

そして再び生地が織り上がる。

以前は他の人に任せていた領域まで自分で理解するようになったことで、織物そのものへの見方も変わりました。


今回の取材で会社の歴史をたどりながら、もう一つ考えたことがあります。


こうした出来事は、本当にこの会社や織物産業だけの問題なのだろうか、ということです。

地方では人口が減り、高齢化が進んでいます。


一つの会社が廃業する。

一人の職人が引退する。

一軒の修理業者がなくなる。


個々に見れば、それほど大きな出来事には見えないかもしれません。

しかし、それが長い年月の中で積み重なると、地域に蓄積されていた知識や技術、サービスが少しずつ失われ、最終的には産業を支える仕組みそのものが成り立たなくなっていきます。

残された企業は、人員不足だけでなく、かつて周囲が担っていた役割まで自分で補わなければならなくなる。

この地域で数十年かけて起きてきたことは、これから日本のさまざまな場所で起こり得ることの縮図なのかもしれません。

そう考えると、人口が減る時代に必要なのは、単純に人を増やすことだけではないのでしょう。


少ない人数でも技術を維持できる方法を考える。

経験を記録し、再現できる形に変える。

一人の職人の感覚や記憶だけに頼っていたものを、次の人が使える知識へ置き換える。

品質を落とさず、生産を続けられる仕組みをつくる。


今、自分が取り組んでいることも、突き詰めればそこへつながっています。

これまでの三和織物は、産地の縮小や人材不足といった環境の変化に直面するたび、会社の形を変えながら対応してきました。

機械を変え、技術を変え、生産方法を変え、新しい部門をつくり、時には海外にも可能性を求めました。

ずいぶん遠回りをしたようにも感じます。

それでも、その過程を経験したからこそ、今は少し違う考え方ができるようになったのだと思います。


これまでは、環境の変化に追われながら会社を変えてきました。

これからは、人が少ないことを前提に、それでも技術を維持できる会社を意識してつくっていく。


機械、データ、システム、そして長年蓄積してきた技術を組み合わせ、特定の人の経験だけに頼らなくても品質を守れる仕組みに変えていく。

これは単なる省人化ではありません。

失われつつある技術を、次の時代へ残すための取り組みです。


産地がなくなり、多くのものが失われてきたからこそ、今残っているものをどう次へつなげるのか。


今回の取材をきっかけに過去を振り返り、自分が現在進めていることも、少しずつではありますが、人口が減っていくこれからの時代に成立する会社の姿へ向かっているのではないか。


そんなことを改めて感じました。

 
 
 

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9/18日付 日経新聞地域版にて掲載

9月18日付の日本経済新聞・地域版に、弊社の記事を掲載していただきました。 ご覧になれる方は、ぜひ9月18日付の日本経済新聞・地域版をご覧ください。 取材・掲載いただき、ありがとうございました。 神奈川「撚糸の里」最後の織物工場 自動化で紡ぐ新しい伝統のカタチ:日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC141FJ0U6A910C2000000/

 
 
 

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